みそについて掘り下げて調べていくと、とても興味深い歴史にたどり着きます。
戦国時代に活躍した武将たちとの密接なつながり。これを知らずして、みそを語ることはできません。
今回は、「戦国武将とみそ」の関係性とその背景についてお伝えしていこうと思います。
みそは戦に挑む勇者にとって欠かせない存在だった!
みそは飛鳥時代から奈良時代にかけて、朝鮮から日本に伝わってきました。その後、室町時代には自家製みそが盛んに作られるように。戦国時代に突入すると武将たちは戦に挑む兵たちにみそを持参することを強く勧めるようになります。みそは戦闘能力に関わる大変重要な存在。なぜなら、保存が利き、栄養価も高いので、最高の軍糧になるためです。
目覚ましい活躍をみせた武将の出身地が、代表的なご当地みそ発祥の地になっているのは偶然ではありません。
彼らが戦に備え、関わりの深い土地でみそ作りに力を注いだからなのです。
戦国時代の代表的な大名といえば、天下統一に関与した織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3名でしょう。
信長、秀吉は当時の尾張、家康は三河で産まれました。現在の愛知県出身ですね。
この地で盛んにつくられていたのは豆みそでした。豆みそは、飛鳥時代、最初に中国から伝えられたみそで、大豆と塩と水のみが原材料。他の地域では醸造技術の発達や情報の増加に伴い、米麹や麦麹を加えることで大豆の発酵を早める方法も用いられるようになります。そして、大豆を蒸して作る赤みその他に、大豆をゆでる製法によって淡い色で甘みの強い白みそも作られるようになりました。多様な種類のみそが各地で親しまれるようになっても、三河では徹底して赤みそ作りが続けられたといいます。その理由のひとつは、三河の土地は栄養分が少なく保水状態も悪かったから。水田で米を作ることができなかったのです。大豆はそのような地質でも栽培できたため、米や麦を使用せず大豆だけで作る豆みそが中心になっていったのだそうです。
ここからは、愛知の豆みそ(東海豆みそ)にまつわる3名をはじめとする、ご当地みそと深い関わりを持つ武将たちの〝みそエピソード〟にそれぞれ触れていきましょう。
濃い味はエネルギーの源! 織田信長
織田信長は、特にねぎを混ぜて焼いた焼きみそや大根のみそ漬けを好みました。少しでも味がうすいと「水くさい」と言って大激怒したそうです。意欲に溢れた活動家であったため、しっかりとした塩味のある食べ物に身体と精神を回復させる即効性を感じた信長は、豆みそを欲したのでしょう。
みそとタコ、麦飯のトリプルパワーで体力維持?! 豊臣秀吉
豊臣秀吉が好んで食べたのが、みそで味付けをした焼きダコだったといいます。タコに含まれるタウリンは脳機能の活性化や疲労回復に効果があることから、秀吉の頭の回転の良さや力強さはタコのおかげだったのかもしれません。
秀吉は百姓の出身で、麦飯も食べられない程非常に貧しい子供時代を送りました。その頃の記憶からか、天下人となった後も「山盛りに盛った麦飯が一番のごちそうだ」と、常々語っていたとのこと。日常的に食物繊維やビタミンB、カルシウムが含まれていて体に良い麦飯を好んで食べていたようです。
晩年は、米粒を包丁で割ってさらに消化の良い状態にした〝割粥〟が主食でした。
健康マニア・徳川家康が貫いた食事とは
現代のような医療技術はもちろん無く、栄養も十分に摂取できない環境だった当時、日本人の平均寿命は37歳前後といわれていました。ところが、徳川家康はそれよりもずっと上の75歳まで生きたご長寿だったのです。
「長寿こそ勝ち残りの源だ」と日頃から語っており、健康オタクとも言えるほど食に精通していた家康は、生涯、麦飯と豆みそを中心とした食事で通したといいます。麦飯に加え、葉菜5種、根菜3種が入ったみそ汁を欠かさなかったことが、長生きの秘訣のひとつだったのでしょう。
信長、秀吉、家康の3人のみならず、江戸時代に活躍した戦国武将の多くは赤みそ文化圏である愛知県に縁が深いといわれています。特に徳川家康の出身地である三河は赤みそが生まれた場所であり、たくさんの優秀な武士を輩出している地域。
このことからも、みそには武士たちが戦いに精を出し、勝利をつかむための秘策だったことがよくわかります。当然、当時は食品の成分分析などできない時代ですから、名だたる戦国武将たちは、みそを食した後の体調の良さを実感することで栄養価の高さを知り、食事に取り入れるようになったのです。
武田信玄の強さを支えた〝陣立みそ〟
ご当地みそで有名なのは、愛知の豆みそだけではありません。長野県の信州みそも有名ですよね。信濃のような山の多い地域でも米は育ちにくいため、大豆を使った豆みそが作られていました。戦国時代、信濃を支配していた武田信玄はみそ作りを推進しました。豆を煮てすりつぶし、麹を加えて団子状にしたものを出陣の際に身に着けると、軍を進めているうちに発酵熟成してみそになります。これが、戦場食として重宝された「陣立(じんだて)みそ」。彼の強さを後押ししたのは、この陣立てみそだったのです。
信州のような海に面していない地域では、塩は大変貴重なもの。塩を備蓄しておくためにも重要な役割を担っていたのもみそでした。
信玄は信濃遠征の際、農民たちに大豆の生産と、その大豆を使用したみそ作りを奨励し、完成したみそを買い取りながら軍を進めていきました。さらには川中島の周辺でもみそ作りを奨励したという記録も残されていることから、後に上杉謙信と戦った川中島の戦いに備え、その土地でみそを準備していたことがわかります。これが信州みその起源とされています。
伊達政宗の指揮で誕生した仙台みそ
奥州の伊達政宗は軍用のみそを製造する場として、仙台城下に「御塩噌蔵」(おえんそぐら)を設けました。日本で最初のみそ醸造所、御塩噌蔵で作っていた赤みそは、香り高く旨味も強かったそう。朝鮮出兵でみそを携行した際、他藩のみそは腐敗しても仙台藩のみそは変質せず味も良いままだったので「仙台のみそは質が良い」と評判になったといいます。
武士たちが戦場に持参した勝負飯とは
戦いの場でできる限り体力を維持していくため、武士たちは1日当たり5合もの米を食べていたそうです。そのときに、おかず代わりに食したのが野菜入りのみそ汁。炭水化物を豊富に含む米とタンパク質、脂質を多く含み、レシチンという脳の老化を予防する成分も入っている大豆を主原料とするみそ。米とみその2つを組み合わせれば、3大栄養素がしっかりと摂取できます。米とみそと少々の野菜という、現代からしてみれば一見すると粗食と思われるような食事ですが、実は栄養価の高い理想的な完全食といえるのです。
米に含まれる必須アミノ酸のうち、唯一不足しているリジンが大豆には豊富に含まれています。一方、米には大豆に不足しているメチオニンが多く含まれています。しかも当時は精米技術が発達していなかったため、武士たちは白米よりもビタミン、ミネラルが豊富な玄米を食べていました。みそには酵素の力によって玄米のマイナス点である消化の悪さを改善する働きもありました。
どうやって戦地までみそを運んだの?
みそを持ち運ぶために考案されたのが、干したり焼いたりしてみそ玉にしたものを他の食料と一緒に竹の皮などで包み、腰に下げるという方法。干大根や芋がらを縄状にして、みそ、酒、鰹節などで煮つけ乾燥させるやり方もありました(ずいき)。これを編んで腰に縛りつけたり、実際に縄として使用したり。食事の際、切って湯に入れれば即席のみそ汁が出来上がるというわけです。ときにはスルメのようにかじって食べることもあったとか。インスタントみそ汁の原点は、こうした武士たちの工夫から生まれたものだったのですね。
その他の主な軍糧
・乾飯
炊いた米などの穀物を乾燥させたもの。水と一緒に食べたり、炒めたり茹でるなど工夫して食べられていました。
・焼きみそ
みそに生姜、山椒、蜂蜜などの生薬を混ぜ焼いたもの。織田信長の好物のひとつです。
・兵糧丸(ひょうろうがん)
米や蕎麦粉、豆類、魚粉などを混ぜてよくこね、球状にまとめたもの。地域や作る人によって原材料や味など様々で、詳細を秘密にしていた大名もいたそうです
・みそ玉
焼きみそを1食分ずつ球状にまとめたもの。お湯で溶けば即席のみそ汁になりますし、そのままかじって食べたりもしていました。梅干しや海藻、野草や雑穀などを混ぜ込んだものもあったそう。
他にも、餅や干物、梅干しなど様々な軍糧が用いられてきたとのことです。
戦国時代に活躍した英雄たちの武勇伝は、学生時代の日本史の勉強から始まり、様々なメディアの情報を通じて、多くの人がご存知のことと思います。しかしながら、活躍の背景にある彼らを支えた食事に、これほどまでにみそが関わっていたことを知っている人は少ないのではないでしょうか。
誰が生み出し、どのように伝わり、どんな人たちが好んで食してきたものなのか。
その物語を辿ってみる面白さも伝統的な食べ物が持つ魅力のひとつですね。
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