2018/01/30

みその履歴書~平安時代から戦国時代~

 

みそは贅沢品だった平安時代

飛鳥時代~奈良時代にはみその原型となる「醤(ひしお)」「末醤(みしょう)」が登場しました。平安時代には初めて「味噌(みそ)」という文字が登場。「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」(934年頃)や「塵袋(ちりぶくろ)」(1264~1287年頃)などの文献には、未醤・末醤→味醤→味曽→味噌と呼び方が変化したと記されています。

平安時代後期、全国的に稲作が広まりだすと、米麹を使ったみその製造が始まりました。米が取れにくい地方では、麦を使ったみその製造が行われました。当時のみそは、「そのまま食べるもの」「他の食物に付けるもの」という位置づけ。当時のみそは、豆などの穀物を塩漬保存した保存食。主に「おつまみ」として召し上がられていたようです。のちの鎌倉時代に発刊された「徒然草」によると、北条時頼と北条宣時が、みそをおつまみとして酒を酌み交わしたとか。また、当時の高級官僚の給与は、みそやもち米で支払われていたようです。当時のみそは、庶民の口に入らないような贅沢品。平安貴族や高級官僚など、位の高い人が食していたようです。

 みそ汁が誕生した鎌倉時代

鎌倉時代、幕府の頭脳的な役目を果し、知識の源でもあった禅寺。中国から来日した禅寺の僧の影響により、粒状だったみそをすりつぶした「すりみそ」が作られました。すりみそは水に溶けやすかったため、みそ汁として食されるように。鎌倉時代の武士の食事は「一汁一菜」。主食や一菜の献立内容はさまざまだったものの、一汁は必ずみそ汁だったとか。みそ汁の誕生により食事の基本が確立され、その後も受け継がれることとなります。

みそ汁が食されるようになったとはいえ、口にできるのは特権階級のみ。一般に普及するのは室町時代以降です。

 みそ料理が庶民に広がる室町時代

町時代には、大豆、ひえ、あわ栽培の奨励策に伴って大豆の生産も増えました。そのことから、農民たちは自家製みそを作るようになり、庶民の間でも食されるようになりました。当時は、ご飯にみそ汁をかけて食べるのが基本だったようです。

みそ汁だけではなく、さまざまなみそ料理が開発されたのもこの頃。鎌倉時代に誕生したなめみそも、鉄火みそ、柚子みそ、蟹みそなどさまざまな種類が登場しています。現代にあるみそ料理のほとんどが室町時代に作られたものだそうです。また、末期には液体調味料の「醤油」が発明されたといわれています。

 みそを戦陣食とした戦国時代

戦国時代は、1467年「応仁の乱」から100年間。戦に明け暮れた武士たちにとって、みそと米はかかせないものでした。みそは貴重なたんぱく源であり栄養の源。戦闘能力を左右するため、軍糧にはかなりの配慮がなされたといわれています。

米は持ち運びやすく保存にも困らなかったものの、みそは発酵食品であるため運搬にも頭を悩ませたのだとか。工夫をこらした結果、みそを干す、またはみそを焼き、玉状にしたものを他の食糧と一緒に竹皮や手拭いで包み持ち運ぶようになりました。また、みそを干し大根や干し菜っ葉とともに煮詰め干した固めたものも。水を加えればみそ汁になる方法も編み出されました。軍隊の移動の際には、みそ醸造の知識や情報交換も行われたといわれています。

各地域の戦国武将たちは、風土の特徴を生かした新たなみその基盤を作ります。まず麦みその信州みその基盤を作ったのは武田信玄。信玄は塩の備蓄のために、農民に大豆増産を促し、みそ製造を奨励しました。信州は良質の大豆や米が育つこと、朝晩で寒暖差の大きい内陸気候もみそづくりに適していたことにより積極的にみそ製造が進められることに。信州みそを積極的に買い上げ、兵糧に備えたそうです。

仙台みその基盤を作ったのは、伊達正宗。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、他藩のみそは腐敗していましたが、仙台藩のみそは変質せずに味も変わらなかったことから「仙台みそは質が良い」と評判になったそうです。正宗はみそを買い上げるのではなく自給しようと考えました。そして城下に、日本初となる味噌工場「塩噌蔵(えんそぐら)」を建設。積極的にみそ製造を進めていました。愛知県の三河地方では、「豆みそ」が積極的に作られていました。戦国時代の織田信長、安土桃山時代の豊臣秀吉、江戸時代の徳川家康も豆みそを好んで食していたようです。名だたる武将が誕生したのは、みそによる力なのかもしれません。

 

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